自然栽培が教えてくれた、存在しているだけで価値があるという事実。

人生哲学

「がんばらなきゃいけないと思ったのは、なぜですか?」
「自己肯定感って高ければいい、低ければダメと思っているけれど、本当にそうでしょうか?」
これ、朝9時15分からのオンラインセッションの会話である。


気になる無料セミナーなどがあると片っ端から参加してきたのだが、今回は、いま勉強している陰陽五行の講座が主催していたオンラインセッション。全5回のセミナーを受講すると1on1の無料セッションがおまけでついてくるというものだった。

がんばっている=我を張ること。
がんばって我を張る人じゃなく、キラキラ夢中になる人に。

1on1セッションの中で担当のQさんに聞かれるまま、答える。
「今回の5Dayチャレンジ、いかがでしたか?」
「苦しかったです。」
「…何が苦しかったんでしょうか?」
「いろいろ頑張ってきたのに、これ以上頑張れというのかと思ってしまって…。」

今回のオンラインセミナーのテーマは、「パラダイムシフト」であった。パラダイムというのは「物の見方・考え方」で、それを変えることで見えてくる世界が変わることを体験しようという趣旨のセミナーだったのだが…。これ以上、何に頑張れというの? と思ってしまったのだ。

私はこの日になるまでに、いろいろなことを変えてきた。自然栽培をやりたくて畑を借り、野菜を育ててきた。その畑をいろいろな人が集まる場所にしたくて、将来は障害者の方に働いてもらえる場所にしたくて、販売ルートも契約したし、SNS集客をするためにインスタやフェイスブックも頑張ってきた。しかし、何一つ結果が出せていない。これ以上、何を変え、何を頑張れというんだろう…。

「それは、どなたかと比べているんでしょうか?」

比べている? いや、他人と比べているつもりはない。敵はいつも自分なのだ。目指したい、憧れの自然農法の師匠がいる。あの人たちみたいに私も自然栽培に取り組み、多くの人を巻き込みながら、地球のため弱者のために動いていきたいのだ。だから、経験を積まないといけないと思っている。

「その人たちに憧れる・目指すことは大切ですけど、追いつけるわけないですよね? その方たちも経験を重ねてしまうのだから。

確かに、相手も進化・進歩していくのだから、追いつけるわけはないのだ。でも、私は誰かに出来ていることなら、私にもできるはずだと思ってしまう。もし、できていないなら、それは私がその方より頑張り・努力が足りないからだと思ってしまうのだ。

「努力は大切だと思いますけれど、到達できるとすれば、例えば3年後、憧れる方の何%かに到達できているかもしれないですよね。頑張る必要はないと思うんです。」

頑張るという言葉は、我を張るという言葉に言い換えることができるのだという。我を張っている人よりも夢中になって一生懸命になっている人に、多くの人は共感を覚えて協力もするし、応援をしてくれるものではないかとも。確かに。私の頑張りは、我を張っていたのかもしれない。キラキラ夢中になるのではなく、力技で何とかしようと我を張っていたかもしれない。

「ゴールがあると思うからダメなんじゃないでしょうか? そうしなきゃいけないと思ってしまう心の奥には何があるんでしょうか?」

もっとやれるはず、自分ならできるはず…。
その過大な自己評価が自分を苦しめているのでは?

ここまでの会話の中で、私の会話の中に、「頑張って」という言葉が多いことと、その頑張っているのに結果が出ないと焦っていることにQさんは気づいたようだ。Qさんに指摘を受けて、私は「3年後に結果が出ていると思っている」と気づいた。そのためには、いまもっともっと頑張らないといけないと思い込んでいる。

「私はもっとやれるはず。」

そう思っていたから。

「ワクワクしているならいいんですが、もっとやれるはずなのにと思っているのに足が止まるのは、何か感情のもつれがあるんじゃないかなと思うんです。」

私は自己肯定感が高く、自分が大好きだから。そういうと、Qさんは、さらにこうつないだ。

「自己肯定感って高いからいい、低いから悪いというものじゃないと思うんです。人は存在しているだけで価値があるはず。自己肯定感というものは何かを守るために作り上げたものじゃないでしょうか?何から自分を守ろうとしているんでしょうね?」

存在しているだけで価値がある。
そう思わせてくれたのが、自然栽培だった。

自分が何かから守るため、逃れるために、高い自己肯定感を身に着けている? そう言われた時、固い鎧の真ん中の真っ暗闇の中に、ちっぽけな自分がポツンと膝を抱えて座っているような絵が目に浮かんだ。私は自己肯定感が高いという鎧で、ちっぽけな自分を守っていたのか…。

なるほど、やれてないとダメと自分で自分を責めているかもしれない。自分は自己肯定感が高い方だともっている。だから、できない自分が自分で許せないのかもしれない。さらに言えば、私の中に、自己肯定感が高いことに価値があり、自己肯定感が低いままでは価値がないというジャッジがあることにも気づいた。頭がいいことや回転が速いことを良しとし、人よりできることに価値がある。それは、自分自身に対しても常に与えているジャッジなのだろう。私は〇〇だからダメ。〇〇できないのはダメ。できないなら人一倍努力をするだけ。まだ足りない、まだ足りない…。

幼少期の人間形成において、家族や人から言われた言葉で、自分の価値観を形成してくるものである。私は親や周囲から常に頑張りを求められ、それに応えなければならないと思い込んでいた。そのパラダイムがあるということなのかな? と思う。

私が自然栽培にはまった理由とリンクした。

自然栽培に魅かれたのは、自然栽培が何一つ取りこぼさないと知ったからだ。自然栽培では、道端に生えている雑草を草マルチに活用する。忌み嫌われている雑草が生かされる。土の中には、人がまだ知らない微生物がたくさんいて、すべてがバランスを取って生きている。病気が出るのは、バランスが崩れてしまっただけ。存在として無駄なものはないのだ。そんな風に、相手を認め、相手から認められ、互いの存在を生かせる場所を作っていきたいと思っていたのだ。そう気づかせてもらった。

美味しい野菜を作れるよう、夢中になって畑に向き合おう。その姿が、いつか大きく結実してくる日を夢見て。

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